はじめに
介護者が人間関係による過剰なストレスにさらされ続けている職場は、チームワークやコミュニケーションが円滑にならない、職場から活気が失せる、仕事が楽しくない、業務に支障が生じる、ときに利用者への態度や言葉遣いなどに波及し、虐待や事故にさえ至り得るのは周知のことと思います。介護職員の離職、もしくは仕事を辞めたいと思っている理由には、常に職場の人間関係が上げられています。
ひとの性格はそれぞれですから、人間関係に合う合わないというのはあります。友好的になりやすい関係があれば、そうなりにくい関係もあります。同じ相手に対しても、まったく変わらない関係であり続けられるというものではありません。人間も変わっていくように、人間関係も変わっていきます。
ですから、職場内の人間関係は意図的にどうこうできるものではありません。誰とでも仲良しでなければならない、誰かに苦手意識を感じてはならないなどと考えているとすれば、その心がけはともかく、現実には無理です。誰かに苦手意識を持ったり、苦手意識を持たれたりするのは、よいこととかわるいこととかいうものではなく、単にあることなのです。むしろ自身の成長と訓練のためには必要なことでしょう。
問題はどんな人間関係であるかというよりも、それがこじれになっているかということです。こじれというのは、事柄に複雑な事情がからんで、すらすら運ばなくなる。ということです。すらすら運ばなくなるというのは、職員どうしチームワークやコミュニケーションが円滑にならなくなるということです。介護の質は落ち、業務に支障が生じるのです。
それで、職場の人間関係がこじれる背景について、
1.職場という場、チームの観点。
2.チームのメンバーである職員個人の観点。そして
3.人間関係をこじらせない取り組み。
に大別して筆述します。
1.職場という場、チームの問題
職務上の了解事項が共有されていない
職務上の了解事項とは、まずその法人あるいはその会社の基本理念のことです。“基本的人権を尊重し~”とか、“人間の尊厳を守り~”などの文言がよくみられます。これは職員間のみならず、利用者やその家族など、すべての関係者の間で共有されていなければなりません。施設の入り口などに掲げてあるのはそのためです。職務上のすべての決定事項、職員の一挙手一投足はこの基本理念に沿っていなければなりません。
さらに年度ごと、事業所ごとにあげられる基本方針、業務の手順や決まり事をまとめた覚え書きといいますかマニュアルなども、職員間で共有されていなければならない了解事項です。それらは、基本理念にある抽象的なことばを具体化させ、実行可能で検証可能なことばに発展させたものです。
少なくとも管理者やベテラン職員など、業務上の指示を出す立場の者の間では了解され共有されている必要があります。自分の下す職務上の判断や指示は基本方針やマニュアルなどに沿っていなければなりません。
これは、一言一句文言を覚えていなければならないという意味ではありません。何か迷ったり、わからなくなったり、確信が持てなくなったら、すぐにそこに立ち戻れるようにということです。なぜそう判断したのか、なぜそう指示を出したのかと問われたら、その理由が基本方針やマニュアルなどに基づいていることが明確でなければなりません。何の根拠もない判断は独断ですし、何の根拠もない指示は独裁です。
このように、職場の人間関係のこじれは、基本理念や基本方針やマニュアルなどが、共有された了解事項になっていない。あるいは基本方針やマニュアルそのものが、共有し得るほど実用的でない職場に生じやすいようです。
ひらたく言えば、根拠が不明なまま独自の判断や指示が行き交い、理屈や行動に一貫性がないということです。こうしよう、ああしよう、こうじゃないのか、ああじゃないのかと思いはするものの、それが共有された了解事項になりにくいのです。思いはあって主張があったとしても説得力がなく決め手を欠き、決まったとしても十分成果をあげられないのです。
許容の雰囲気がない
しかし、実際に介護に従事する者が、基本方針がマニュアルがどうこうと、いちいち言っていられるものでもありません。息が詰まってしまいます。
無視してよいというのではありませんが、ある部分はアバウトな介助、アバウトな業務があるのも現実です。手の洗い方が雑だとか、ひらがなばかりの読みにくい日誌だとか。このアバウトさに対して許容の雰囲気がなさすぎる場も、職場の人間関係のこじれの原因のようです。何でも完ぺきに仕事をこなそうとする職員が、細かいことを言ってくる利用者の家族や上司にまいっているのをよく聞きます。
ギスギスして許容の雰囲気を感じられない職員は、面と向かってものが言いにくく、孤立するか、陰でものを言わざるを得なくなります。手厳しい指摘を受けそうな内容の報告は不正確になりやすくなります。起きた失敗に対して防衛的になり、いいわけじみた弁明や自己反省に終始してしまい、建設的な検討課題となるものが活かされなくなってしまいます。
失敗は起こしたり起こさなかったりするものではなく、起こるものです。失敗が許され建設的な検討課題として活用されれば、介護者の思いは複雑になることなく人間関係のこじれにいたる要素ではなくなります。だれでも失敗を積み重ね、経験に応じて、資格に応じて、年齢に応じて、だんだん熟達していくのです。
リーダーシップ(職権)がとられない
誰かが下さなければならない職務上の決定、誰かがしなければ、言わなければならない職務上の指摘というのがあります。どう決定しても誰かに不満が出る、どう言っても角が立つ場合が少なくありません。
例えば、職員の常習的な遅刻や欠勤、不適切な言葉遣いや不適切な介助などは是正されなければなりません。社会人にもなって遅刻や欠勤はもとより、職場での礼儀作法など言うまでもないことなのかもしれませんが、言わないとわからない者には言わなければなりません。しかも相手にわかるように言わなければなりません。この役割を果たすのが管理者です。管理者に責任と職権があるのはそのためです。
管理者によるリーダーシップ(職権)が十分にとられず、問題となる事態が改善されないまま放置されていることは、職場の人間関係をこじらせる要因になります。問題の内容より、むしろそれが放置されていることのほうが職場の人間関係のこじれにつながります。場合によっては管理者対反管理者のような派閥が形成されることもあります。
社会や職場には約束ごと(規律)があり、それをお互いが順守するのを前提に職場は成り立っているわけです。チームのメンバーにそのような認識が不十分だと、問題によって迷惑を被り続ける者のみならず、チーム全体に失意や不満がつのり、その矛先は管理者に向けられ、人間関係も問題もこじれていきます。チームワークとは、管理者が適切なリーダーシップ(職権)をとること、管理者がリーダーシップをとりやすいよう他のメンバーが協力することによって成り立っているのです。
2.職員一個人の事情
“あなた”で語るか“わたし”で語るか
A.「○○さんは、そう言いましたよ」
B.「わたしは、そう聞きましたよ」
どちらの言いかたになりやすいでしょうか。自分がAのように言われたら、Bのように言われたらどうでしょうか。
Aは、○○さんに責任引き受けさせることなります。そのため否定、防衛を生じさせる可能性があります。言った言わないと始まるのです。この場合、「言った」という言葉は○○さん自身が使い、「聞いた」はわたしが使えば、訂正したり否定したりする必要はなく、複雑にならず、人間関係はこじれにくくなります。
あなたあなたと、あなたでばかり語るようになったら、自分が見えなくなっているかもしれません。
言わせてもらえているか
A.言ってあげる。聞かせてあげる。
B.言わせもらう。聞いてもらう。
お互いの姿勢がAだったら、あるいはBだった人間関係はどうなっていくでしょうか。
わたしたちの日常は、Bの姿勢で語られるべきなのがほとんどのはずです。なれなれしくなって、この姿勢を忘れるとトラブルの原因になります。親しき中にも礼儀あり、とありますから、親しくなりにくい場合には特にこの姿勢が関係を左右します。
コミュニケーションには確かにテクニックがありましょう。しかしコミュニケーションの本質は、そのひとの人間関係における姿勢、立ち位置が問われるのです。自分が語ろうとしていることが憶測なのか真実なのか、本音か建て前か、それを言うのは相手のためなのか自分のためなのか、それを相手に言って自分はどうしたいのか。そのうえでテクニックがテクニック足りえるのです。
3.人間関係をこじらせない取り組み
具体的には、研修の機会をもうけ、職員どうしがコミュニケーションの深まりを感じられる体験を重ねていくことです。聞く訓練、語る訓練をとおして、本当に伝えたいことが言えた、伝わったと感じあえる体験です。
最初から何の訂正もなく自分の伝えたいことを正確に語り、相手の言っていることを正確に聞き取るというのは案外難しいのです。ほんとうに言いたいことというのは、本人でさえ語っていくうちに整理されていき、はじめてわかってくるということが多いのです。
何度も言いなおさせてもらい、何度も聞きなおさせてもらい、訂正を積み重ね、伝わっていくのです。
それでチームの、あるいは事業所の管理者は、チームの問題や一職員からあがってきた苦情や不満を、単にやっかいな業務の支障ととらえるのではなく、職員の、チーム全体の学習、研修の機会としてとらえるのです。
そのようにして職員間のチームワークが深められる職場は活気にあふれ、人間関係のこじれは少なくなり、事故や虐待、離職の抑止に至ります。職員一人ひとりがプロとして、ひとりの人間として成長できるのです。それを福祉というのでありましょう。